
2025.12.3
野矢先生に、きいてみよう!
野矢茂樹(のやしげき)先生とともに「国語」について考えるシリーズ。お便り回の第1回、第2回でも取り上げてきた「自ら考える力」。ところで、そもそも「考える力」とは……? そこには「思考ツール」の活用も関連しているようです。
前回の質問はこうでした。
Q 分からないことは素通りしたり、少し難しいものに手が伸びなかったりする生徒に対して、野矢先生ならどのような声かけや手立てを考えますか?
この質問を巡ってどうすればよいか考えてみましたが、今回もそれを引き継ぐところから始めましょう。
いや、これがまた「そもそも論」になるのですが(そこが哲学者の困ったところでもあり、偉いところでもあります)、そもそも「考える力」って何でしょうね。いや、もっと根本的に「考える」って何をすることなのでしょう。そのテーマで私は本を書いたこともあるので(前回示した『はじめて考えるときのように』(PHP研究所 2004年)です)、詳しくはその本を読んでいただければと思いますが、その核心部分をいきなり言ってしまえば、「考える」とは「問いの緊張を保ったまま待つこと」なのです。
例えば「125+237」のような単純な計算問題を出されて「362」と答えを出すのは「考えている」とは言えません。一般にマニュアルがあるところで、そのやり方に従えば答えが出てくるようなものは、どれほど複雑であっても、「考える」ことではありません。つまり、思考において私たちは、マニュアルのないところを進んでいかなくてはならないのです。
突き詰めれば、「考える」とは「考え」が降りてくるのを待つという受動的な状態です。これはあまりピンとこないかもしれません。しかし、長年哲学の問題を考え続けてきた私の実感です。私の場合、考えることの最後は散歩することです。歩行のリズム、ある程度身体を動かし、ある程度頭を空っぽにしている状態がよいのだと思います。1時間ほど歩いていると、そのとき抱えている問題の答えを思いつく、というのが私のよくあるパターンです。しかし、これは人それぞれでしょう。アルキメデスのように入浴中に閃く人もいるでしょう。考えるとは、最後は閃きを待つことであり、閃きは「さあ閃こう」といって閃くものではありません。私は、それは雨乞いのようなものだと思っています。
雨乞いという比喩には二つの側面があります。ひとつは、いま述べた、最後の最後は受け身の状態だということ。そしてもうひとつは、雨乞いの儀式そのものは能動的にやりようがあるということです。考えることにも、閃きを促すためにやれることがあります。私の場合だと、本を読むこと、他の人たちと議論すること、いまの自分の手持ちの考えや情報を整理すること、そして、問題そのものを分析して、問いの姿を可能なかぎり明確にすること。こうしたことをした上で、散歩に出る。何も降りてこなかったら、もう一度雨乞いの儀式を繰り返す……。
これに関連してもうひとつ別の質問を取り上げましょう。
Q 思考ツールの活用についてどのようにお考えでしょうか。
「思考ツール」と呼ばれるものがさまざまにあります。テーマから連想を広げるウェビング、情報をカテゴリーに分けて整理するグルーピング、ベン図、チャート、等。これらは雨乞いの儀式のやり方です。どれも有効だと思います。私自身も、これらと似たやり方で自分の考えや問題を整理します。
ただし、こうした思考ツールは思考のマニュアルではありません。あくまでも閃きが降りてきやすいようにするための方法です。例えばウェビングでも、最初は思いつくままを記入していくのでよいでしょうが、複雑なウェビングマップを乱雑に描いただけでは閃きを誘発する力に乏しく、役に立ちません。だいじなのはそのマップを前に受け身の状態になって、さあ、閃きが降りてくるか、ということです。閃きを喚起する力をもったマップを作る。そのためには、目で見て全体が一望できることがとてもだいじです。ときにウェビングマップの実例としてやたら複雑なものが示されたりしますが、そんなものを見ても頭がぼーっとするだけです。へたをすると、ウェビングマップを作ること自体が目的になってしまい、複雑な網の目の出来栄えに満足するということも起こりかねません。
いまウェビングについて述べたことは、他の思考ツールにも当てはまります。もしかすると、思考ツールを教えたことで授業としては役目を果たしたと考えてしまうかもしれません。そして、うまくグルーピングできたぞとか、いい感じでチャートが作れたということをゴールとしてしまうかもしれません。しかし、思考ツールの目的はあくまでも閃きが降りてくるように、頭を活性化させることにあります。思考力を鍛える勝負所はここからなのです。
どうすれば閃くのか。それは私が聞きたい(笑)。ここから先は知識として教えることのできない領域です。だけど、だからといって教師にやれることがないなんてことはありません。繰り返せば、考えるとは「問いの緊張を保ったまま待つこと」です。分からなければすぐに諦めるという状態から、分からないけれども分かろうとして問いを抱え続け、問いに答えようとする気持ちを失わないでいる。それは言わば知的忍耐力です。(私は多少冗談めかして「知的根性」だとも言います。)これは、体育で生徒の持久力を鍛えるのと同じようなものです。鍛えたいというモチベーションをもって、あるいは球技などを通して楽しみながら、時間をかけて少しずつ持久力を身につけていきます。知的忍耐力も同様です。手ごろなトレーニングを続けながら、時間をかけ、少しずつ身につけ、鍛えていくしかありません。