
2025.10.22
野矢先生に、きいてみよう!
野矢茂樹(のやしげき)先生とともに「国語」について考えるシリーズ。野矢先生への質問のお便りをお送りいただいた読者の皆さま、ありがとうございました! ここから数回にわたって、野矢先生のお便り回答をお届けします。今回は、教室での問いとの向き合い方について考えます。
国語の授業をもたれている先生方がどのような悩みをおもちなのか。いまどんな状況なのか。どんな問題があるのか。もちろん私がそれに「正解」を示すことなどできはしません。だけど、なんとかしてよりよい方向に向かうよう、ともに考えることはできます。実際、問題というのは、何が問題なのか、その姿が見えてくれば、それだけでも大きな前進なのです。少しでも力になれればと願って、質問をとりあげさせていただき、私なりに考えてみようと思います。
Q LINE、TikTokなどの短いコンテンツの多いSNSの影響か、生徒たちの深く考える力が衰えているように思います。授業では、粘り強く考えることをうながしているのですが、生徒の反応は、答えさえ知れればその過程はどうでもよいというような感じです。野矢先生だったら、どのような活動、指導の仕方をお考えになるでしょうか。
これはもう学校だけの問題ではなく、私たち大人を含めた日本全体、いや、世界の多くの国で問題になっていることですね。そしてそれは本当に危険なことだと憂慮しています。どうすればよいのでしょう。
やはり、最も期待されるべきは教育です。もうカチンコチンに固まってしまった鉄を打つのではなく、まだ熱く柔らかい内に、基本的な考え方、感じ方を身につけていくこと。学校教育で万事うまくいくなんてことはありえませんが、教育が最も有効であり、教育に望みを託すしかありません。
だけど、この問題は本当に根深いのです。その根っこのところには、学校教育にいて生徒の成績をどう評価するかという問題があります。評価の客観性を求めると、明確な答えのある試験が評価方法の中心になるでしょう。入試などはとくにそうです。問題に答えさせて、正解と不正解に仕分けして成績をつけ、試験の合否を決める。この評価方法のもとで、しかも、高い得点をとったものほど「勝ち組」とされる。これを小学校からずっと続けてきたらどうなるか、思い描いてみてください。いや、思い描くまでもありません。目の前にそうした子どもたちがいるわけですし、何より私たち自身がそうなのですから。
この「教育」のおかげで、正解を出すことに価値を見出し、不正解は無価値どころかマイナスの価値をもつ、あるいは「正解が善、不正解が悪」という価値観が浸み込んでいきます。
この価値観の後半、「不正解が悪」という考えも有害です。これは、失敗したらだめなんだ、恥ずかしいんだ、成果を出せなければ努力はすべて無駄になるんだ、という気持ちにつながるでしょう。そして「正解が善」という考えも有害です。これは正解すればいいんだという考え、結果しか評価しないという考えをもたらすからです。
ですから、根本的には、正解・不正解という結果で評価するのではなく、そこに至る過程に目を向けるということになります。私としては、自分の専門が哲学ですから、我田引水、哲学をやるのがいいと言いたくなります。哲学は正解がない、あるいはあるのかもしれないけれど、いっこうに正解が見えてこない世界ですから。
でも、「学校教育に哲学の授業を!」なんて少なくとも現在ではなかなか難しいでしょう。とはいえ、少しでも余裕のあるときに理想を考え、確認し、根本的にそもそも論へと向かうということも必要です。実際の業務に追われながらも、一年に一度くらいはそんな時間をもちたいものです。(哲学者は年中そもそも論をやっていますが。)
では、もう少し手近なところから考えていきましょう。まず、教室の雰囲気作りがだいじです。「安心してまちがえられる場」を作ってあげてください。 まちがうこと、失敗することはけっして恥ずかしいことではないという感覚を生徒たちにもってもらうことです。授業は成果を競う場所ではなく、成長するための場なのだということを、たんに言葉で説明するだけでなく、そうした空気を作り出すことです。途上にある人間(つまりすべての人間)はまちがって当然です。人はまちがいや失敗からこそ多くを学ぶのです。
そのためには、まちがいを授業の中でポジティブに捉える姿勢が教師にも求められます。「なんでこれが分からないんだ」とか「前に言ったでしょう」なんて言葉は(私などもつい言いたくなってしまいますが)禁句です。なんでまちがえたのか、なぜ失敗したのかを考えて、成長につなげる態度が必要です。
だいじなのは結果を重視する価値観から過程を重視する価値観へとシフトすることです。だけど、それはかなり大ごとです。私たち自身が成果主義の価値観にどっぷり浸かってきましたから。また、先にも述べたように、教師の主観を排して評価しようとすると、どうしても点数化された結果を重視することにもなります。おそらく、結果ではなく過程を評価しようと模索している先生たちは、ではどう評価すればよいのかと悩んでいるのではないでしょうか。しかし、入試は別として、学校における評価は選別のためではなく、あくまでも教育のためです。生徒に自分の現状を自覚してもらい、モチベーションを上げる。これに尽きます。だとすれば、主観的になることを過剰に恐れるべきではありません。
いきなり大きな質問が出されたので、長くなりました。でもまだ考えなければいけないことはずいぶんあります。今回のと同様の質問で次のようなものがありました。
Q 分からないことは素通りしたり、少し難しいものに手が伸びなかったりする生徒に対して、野矢先生ならどのような声かけや手立てを考えますか?
この質問への回答を通して、次回、もう少し具体的に考えてみたいと思います。