野矢先生に、きいてみよう! お便り回~生成AIと国語教育~

2025.12.24

野矢先生に、きいてみよう!

お便り回~生成AIと国語教育~

野矢茂樹(哲学者)

野矢茂樹(のやしげき)先生とともに「国語」について考えるシリーズ。前回のお便り回では「思考ツール」が話題にあがりました。今回は、今後の国語教育を考えるうえで避けては通れないツール、生成AIについて考えたいと思います。

Q 野矢先生は、生成AIが国語教育の現場に入り込んでくることにどのようなお考えをお持ちでしょうか。

まず基本的なことを押さえておきましょう。かつて、もう40年ほど前になるのでしょうか、「第五世代コンピュータ」や「エキスパートシステム」と言われ、人工知能の性能を飛躍的に向上させる研究開発が盛んに行われていました。しかし、そのやり方では限界があることが分かってきて、私の印象ではいつのまにか立ち消えになりました。

新しい変化が起きたのは今世紀に入って、ニューラルネットワークという考え方をもとにディープラーニングという手法が開発されたことによります。詳細はともかく、ここで押さえておきたいポイントは、この新たな手法はかつての考え方とまったく異なっているということです。以前の考え方は、コンピュータはまさに計算機であり、「これこれの前提を入力すれば、計算するプログラムに従って、論理的にこの結果が出てくる」というものでした。それに対して、新たな考え方は論理ではなく統計です。つまり、「今までこうだったから、今回もこんなもんだろう」という考え方です。論理的には今回は今までとは違うかもしれません。だけどそこはアバウトにして、おおむねこれでオーケー、と答えを出していきます。ただし、このアバウトさは、大量のデータに支えられています。私たちが個人でもちうる経験データなど遠く及びもつかない量のビッグデータがあり、それをもとに出した「こんなもんだろう」ですから、私などが経験に基づいて出す「こんなもんだろう」とは精度が違います。

以上の説明から、逆に現在のAIの弱点が見えてきます。AIは今までのデータをもとに類推することしかできませんから、今までのデータに偏った価値観や考え方が潜んでいても、それをそのままデータとして受け取り、それを反映した結果を出してきます。旧来の考え方を変えていこうとする革新性やこれまでになかったまったく新しいものを産み出す真の創造性は、AIには不得意なのです。(将棋などで新しい手をAIが示すことがあります。あれは、AIの「今まで」が人間たちの「今まで」と決定的に違うからです。AIは自分で自分と対戦して、圧倒的な対戦データを蓄積します。将棋などでAIの方が強くなったのはそういう事情によります。)

生成AIは、データをそのまま取り出してくるのではなく、データを処理して「こんなもんだろう」という新しいものを出してくるので、「生成」AIと呼ばれます。しかしそれはあくまでも「今まで」からの類推だということは、押さえておきたいポイントです。

生成AIは真に創造的なもの、革新的な考え方を求めない範囲では、ものすごく役に立つ道具です。これからますます社会の中に浸透していくでしょう。それは歓迎すべき事態です。ですが、教育現場に目を向けると、困ってしまう事情があります。大学でも、学生がレポートを生成AIに書かせる(だもんだから、ほぼ同じ内容が複数の学生から出てくる)なんてことが、現に起こっています。

会社などではどんどん生成AIを取り入れてよいでしょう。あるいは、教師が生成AIを利用して資料や書類を作成することもいいでしょう。しかし、教育の場面ではそうはいきません。理由は、それが「教育」の場面だからです。

また体育の例を出しますが、例えばゴルフ場で使われているカート。ゴルフ場で使う分にはなんの問題もありません。しかし、楽ちんだからといって、体育のランニングのときにカートに乗って校庭を一周してもなんの意味もありません。教育は、手ごろな負荷をかけ、それをクリアすることを繰り返して、能力の向上をはかるものです。もちろん、国語教育もそうです。

そのためには考える力や書く力を鍛えたいというモチベーションをもたせることが必要になります。そのモチベーションがあれば、課題に対して生成AIを利用するのは損だと思えるでしょう。しかし、考える力や書く力を鍛えたいという目的意識をもたせることもなかなか難しい。必要なのは、実際に能力が向上したという実感、その喜びの経験です。できなかったことができるようになる喜び、そして分からなかったことが分かるようになる喜び。その点で、国語は体育よりも不利のようです。体育だと、体力や技術の向上を感じる経験ももちやすい。しかし国語は……。国語の勉強に熱心になれない生徒たちは、そうした実感をもてないでいるのだと思います。

だけど、国語だって、できなかったことができるようになる喜びを与えることはできます。例えば、要約の練習。おそらく要約はAIの方がじょうずでしょう。しかし、要約の練習をすることは文章を読む力と書く力を鍛えるのにひじょうに有効です。そして、要約の仕方を教え、レベルアップしていく教材を用意すると、実際に能力の向上を実感することができます。(私は、大学の授業で要約の練習をやったときに、学生たちからそうした声を実際に聞きました。)

ただ、国語は何を学ばせたいのかがもうひとつはっきりしないというのも実情でしょう。「できなかったことができるようになる」、「分からなかったことが分かるようになる」、どうすればそうした体験をもっと豊かに与えられるのか、教材と授業の仕方を模索していかなければなりません。

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