こくごレポート 第9回 中澤晶子さん講演会 ~未来へつなぐヒロシマの記憶~

2025.9.24

こくごレポート

第9回 中澤晶子さん講演会
~未来へつなぐヒロシマの記憶~

こくごスタジオ編集部

コトハ今回の「こくごレポート」では、島根県出雲市で開催された「戦争・平和について考える研修会」における、作家・なかざわしょうさんの講演を取材しました。中澤さんは、「模型のまち」(東京書籍)など、戦争や原爆を題材にした作品を多く執筆されています。戦争を直接的に経験したかたのお話を聞く機会が少なくなるなど状況が変化する中で、子どもたちに戦争の記憶をどう伝えていくのか。考えるための端緒を中澤さんのお話から探します。

2025年8月、出雲市立西野小学校で行われた「PIECE of PEACE 島根教師の会」主催の研修会にて、中澤晶子さんによる講演会が開催されました。講演題は「ヒロシマとあなたをつなぐもの~作品に込めた「ワタシゴト」~」。島根県内の先生がたのほか、学校司書、図書館司書のかたなど、80名以上の参加者が集まりました。


「模型のまち」ができるまで

講演の冒頭では、「新編 新しい国語」6年(東京書籍)に掲載の「模型のまち」を執筆するに至った背景について語られました。

今の子どもたちにとっては、原爆や戦争はひいおじいちゃんやひいおばあちゃんの世代の話なので、自分とつながりがあると思わなくてあたりまえだと思います。それでも何とか、自分と地続きになっている問題だと捉えてほしいという思いがありました。どうしたら、今の子どもたちと80年前の子どもたちがつながるだろうかと考えました。80年前の子どもたちはつらい思いもたくさんしていますが、それでもやっぱり子どもは子どもなので、楽しいこともあるし、遊びもあっただろうし、友達と川で泳いだり、いろんなことをしているはずです。そういう子どもたちと今の子どもたちが、「子ども」であるという一点でうまくつながっていかないだろうかと思って、「模型のまち」を書きました。

「模型のまち」には、象徴として「ビー玉」が登場します。中澤さんは、広島平和記念資料館本館地下の発掘現場を見学した際に、ビー玉を目にしたそうです。

資料館の耐震工事を行う際に、地下を掘ると、街の遺構が出てきました。なんと、資料館の東部分の下は、当時「菊の湯」という銭湯だったのです。発掘現場は市民にも公開されたので、私も見に行きました。被爆したときの地層は、ほかのところと比べて黒くなっています。つまりこの辺りは火の海で、地面まで焦げてしまったのです。焼け跡からは、しゃもじやお弁当箱、牛乳瓶、名前の入った三角定規、歯ブラシ、子どもが作った人形なども見つかりました。これらの中に、ビー玉もあったのです。

発掘現場の写真や原爆投下前の再現地図を見せながらお話しされる中澤さん 発掘現場の写真や原爆投下前の再現地図を見せながらお話しされる中澤さん

これは今の平和記念公園が昔どんな街だったかという地図です。旧中島地区といわれるこの辺りには、被爆前4000人くらいの人が住んでいたと言われています。1969年から調査が行われ、たまたまその日は郊外にいたなどして難を逃れ、生き残った住民の記憶・証言をつなぎ合わせて作られました。

平和記念公園を訪れた子どもたちの中にも、「原爆が落とされたときに、ここは公園だったからよかったね」と言う子だってやっぱりいます。分からないんですよね。どう考えてもここに街があったなんて思えない。けれども、4000人の一人一人に住まいがあり、仕事があって、家族がいたわけです。

ガラスのおはじきなど、資料館の地下から発掘されたものは、全て永遠に失われた暮らしのあかしです。そういうものがあったということを、ぜひ今の子どもたちにも知ってもらいたいと思っています。修学旅行で平和記念公園に行く子どもたちも、ここには昔は街があって、それが戦争によって徹底的に破壊されてしまったのだということに思いを至らせてくれることを願っています。


『ひろしま絵日記』について

続いて、最新作の『ひろしま絵日記』(小峰書店 2025年)がどのように生まれたか、そのきっかけとなるエピソードが語られました。

(写真を投影して)県立広島第一高等女学校1年生のいしざきむつさん、当時12歳が着ていた制服と日記です。資料館に寄贈されているので、展示されていることもあります。この制服を見つけたのは、石崎さんのお父さまでした。学徒動員で屋外作業に出ていた娘が帰ってこないので、作業をしていたであろう場所に捜しにいくけれども、何日経ってもなかなか見つからない。ようやく見つけたこの制服は、瓦の下から覗いていました。制服の布もない時代、お父さまの夏の着物を仕立て直して作ったものだったので、すぐに石崎さんのものと気づいたのだそうです。作業するときに汚れないように脱いで置いていたので、上から瓦が積み重なって焼け残ったのだと思われます。石崎さんの姉、うえのりさんは、妹に会いたくなると資料館に行き、収蔵庫から資料を出してもらって、妹さんに「面会」するのだそうです。

石崎さんの日記の8月5日のページには、「今日は大へんよい日でした。これからも一日一善と言ふことをまもらうと思ふ」と書かれています。けれども、次の日の8月6日の日記は永遠に書かれませんでした。こういう日記が資料館にはたくさん残っています。

この子どもたちが亡くなったことの意味をしっかり考えながら、大人は生きていかなければならないと思います。彼女たちをこういう目に遭わせたのは大人なのです。

ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、戦後40年にドイツで行った演説で、「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」という言葉を残しています。その演説の中で彼は、戦争の時代に生きていなかった人には、その戦争に対して何の責任もない。だけど、これから同じことが起こらないようにする責任は全員にあるというようなことを言っています。私は確かにそうだなと思いました。私もみなさんも、同じようなことを繰り返さないための努力をする責任は等しくあります。学校の先生が子どもたちに教えることも、私が本を書くことも、全部同じことではないかと思っています。


フィクションだからできること

1945年の12月までに広島の死者は14万人前後と言われていますが、厳密に数えられたわけではありませんし、当時の人口も正確かどうかは分かりません。現在、世界のあちこちで戦争が起きていて、ガザでの死者はこれまでに6万人と言われています。だいじなのは、人は数字では表せないということです。何万人といってもその一人一人に、生活があって物語があるわけです。

私はフィクションの作家なので、物語を書くことで、一人一人の死者の生と死を「作り事」でよみがえらせたいと思っています。そういう形にしないと、亡くなった一人一人の物語はなかなか届きにくい。物語を書くということは、亡くなった人の思いや暮らしや願いを違う形で表現することです。ノンフィクションでは表せない真実が、物語のどこかにあるかもしれないと思っています。

私が書いたものを子どもたちが読んで、そこから想像力を働かせ、ものを考える入り口になれば十分だと思っています。自分が体験していないことであっても、こうだったかもしれない、ああだったかもしれないと、資料や物語を通して入り口を見つけることができる。それが人間であるあかしだと思うのです。


その土地の戦争の記憶を伝えていくこと

「平和学習 島根ふるさと読本」(「PIECE of PEACE 島根教師の会」によって作成された地域教材)には、疎開児童と地元の国民学校の子どもたちの体験や、さんさんに陸軍演習場があったこと、空襲があったことなどが書かれています。島根がどのように戦争と関わったのか、これを読むまでは知りませんでした。広島、長崎、東京大空襲のみならず、それぞれの土地でその土地の戦争の記憶があります。島根には島根の、出雲には出雲の戦争の記憶があります。それを地道に拾っていき、次の世代に渡していくことは、今後、戦争と平和を学ぶうえで欠くことができないものとなると思います。

「平和学習 島根ふるさと読本」のほかにも、さまざまな戦争・平和関連の書籍が展示されていました 「平和学習 島根ふるさと読本」のほかにも、さまざまな戦争・平和関連の書籍が展示されていました

講演会の最後は、次のような言葉で締めくくられました。

被爆者のかたに話を聞くと、戦時中には「今日も会えたね」という挨拶がよくあったそうです。空襲でいつやられるか分からないから、無事に会えたことを喜んでいたのだそうです。そんな世の中では、いつ爆弾が落ちるか分からないから、みんなで集まる約束なんてできません。私たち自身も、だいじな子どもたちも、明日の約束をちゃんとできる世の中にみんなでしていきたいと思います。

参加者からは、どうなれば戦争体験を「継承」できたことになるのかという疑問や、戦争・平和について学校での指導が難しいと感じた経験などが次々と挙がり、活発に意見が交わされました。

80年前の子どもたちと今の子どもたちを物語でつなごうとする中澤さんの言葉は、歴史を自分と地続きの問題として考えるための、貴重なきっかけをくださったように思います。


(取材日:2025年8月)

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