
2024.7.10
教材探検隊
小学校6年の教科書に新しく掲載された「模型のまち」。今回は、その物語の舞台である、広島の平和記念公園を訪れました。
「模型のまち」は、広島在住の作家、中澤晶子さんによる書き下ろし作品です。
主人公の亮は、広島にやってきた転校生。新しい学校に来たばかりの亮の関心事はもっぱら学校生活や友達との関係で、原爆ドームや被爆当時のことは「自分には関係ない」と思っています。そんな亮は、学校帰りに平和記念公園を歩きながら、こんなことを考えます。
「都会の真ん中なのに、ここはまるで森だ。ふめば靴がしずむようなやわらかい土のにおい、頭上をおおう緑の濃いにおい。鳥の声。ときどき、だれかが鳴らす鐘の音も、風に乗って流れてくる。平和公園って、ぴったりのネーミング、と亮は思う。」(「模型のまち」より)
(写真提供:PIXTA)
物語の中で亮が感じたように、平和記念公園は緑豊かで広々とした穏やかな公園です。しかし、原爆投下以前は「中島地区」と呼ばれ、県内有数の繁華街が広がっていました。そんな「まち」が、原爆によって一瞬でなくなってしまった―― 。亮は、資料館の地下発掘調査の見学で、地下から出てきた生活の痕跡を目の当たりにし、人々が本当にここで暮らしていたのだということを実感するのでした。
広島平和記念公園では、今でも地下の遺構を見ることができます。亮はいったい、どんなことを感じたのだろう。それを知るために、編集部は広島へと向かいました。
東京から約4時間かけて、平和記念公園に到着しました。早速、原爆投下以前の生活の痕跡を探して公園内を巡ります。ご案内くださったのは、多賀俊介さん。公園や資料館を案内するヒロシマピースボランティアとして活動されています。
まずは、平和記念資料館の出口からすぐの場所にある「被爆遺構展示館」に向かいます。……とその前に、元安川沿いにある説明板へ。
旧中島地区の東側に位置する「天神町」の説明板。公園内には同様の説明板が5箇所ある。
説明板には、町の中央に延びる「天神町筋」沿いに家々が軒を連ねていたことや、中島地区の中でも戸数・人口ともに最も多い町であったこと、被爆当時には300人以上が住んでいたことなどが記されていました。ちなみに「天神町」という町名は、南にある天満宮に由来し、にぎやかなお祭りも開かれていたそうです。
そのすぐ近くには、天神町で亡くなった人々を悼む慰霊碑がありました。
旧天神町北組慰霊碑
「公園内を巡るときには、被爆遺構とあわせてこの碑もいっしょに見てほしい。それが原爆によって失われたものを想像してもらうための手がかりになります。」と多賀さんは語ります。慰霊碑を見ると、多くの名前が刻まれた中には「◯◯ 妻 子ども二人」など、名前が明らかになっていない家族もいることが分かりました。
続いて、被爆遺構展示館に入っていきます。
被爆遺構展示館は、2022年に完成したばかり。
被爆遺構展示館の入り口と出口から延びるオレンジ色の道は、天神町の中央に南北に延びていた「天神町筋」の道路幅を再現しているそうです。この場所を歩いて、ここで生活している人がいた―― 町の営みを想像しながら、展示館に足を踏み入れました。
ガラス戸を2枚開けると、室内の気温は少し高く、ヒノキの香りで満ちていました。室内の環境は、遺構への影響を最小限に抑えるための工夫を凝らして設計されているそうです。
足もとに目を向けると、そこには天神町の住居や道路の跡が展示されていました。
当時の道路や住居の跡
上の写真の手前に見えるのが側溝で、そこから奥に続くのが住居部分になります。左奥に見える黒い部分は蒸し焼きになった畳ですが、炭化した畳は劣化しやすいため、現物を保護した上にレプリカを設置してあります。
人が踏み越えて行き来していたであろう側溝や、炭化した畳を見ると、ここで人が暮らしていたということがありありと目に浮かびます。天神町で暮らした人々の体温が感じられるような瞬間でした。
天神町筋は当時としては珍しくアスファルトで舗装されており、子どもたちの遊び場にもなっていたそうです。館内のパネルや解説動画からも、被爆前の町の様子を知ることができます。
館内のパネルでは、当時の生活の様子や町並みが紹介されていた。
市民の会の代表として被爆遺構展示館の設立に関わったという多賀さんは、「現場やそれにほぼ近いものを残すことで、それを見てイメージしてもらいたい。空気で感じたり、触れたりすることを大切にしてほしい。」とこの展示館に託す思いを話してくださいました。
館内には、被爆遺構が町のどのあたりに位置するかを示した地図も掲示されていた。
被爆遺構展示館設立までの検討の過程では、どの場所を掘り出すかについても議論を重ねたそうです。「どの場所を掘り出しても、何かしら(の人が住んでいた痕跡)が出てくるんです。」ただ、いちど掘り返してしまうと保存するのが難しく、たくさん掘ってみればよいというわけではありません。施設ができるまでの経緯をうかがって、多くの人に見て感じてもらうために尽力された方々の思いの強さを感じました。
被爆遺構展示館から少し北に歩き、広島平和記念公園レストハウスへ。3階には、旧中島地区の模型が展示されています。
模型は直径約3.3mの円形に作られている。
T字型の相生橋や奥に見える原爆ドーム(広島県産業奨励館)、2本の川を頼りに今の平和公園の地図と重ね合わせると、公園内に所狭しと建物が密集していた様子が分かります。この日歩いたあたりにどのような町並みがあったのか、想像をふくらませることができました。
多賀さんのお父様は、原爆投下の翌日に姉(多賀さんにとっての伯母)を探して中島地区に入りました。後に、残留放射線を受けたということで法的に被爆者と認定されました。多賀さんは、地理の教員として勤めていた中高一貫校で平和教育のカリキュラム作りを任されたことをきっかけに被爆体験の継承に関心を持ち、退職後にピースボランティアなどの活動を始められたということです。
「年々、戦争経験者や被爆体験者の声を聞くのは難しくなってきています。ですが、どの家族も何代か遡れば戦争体験者はいます。空襲を受けたり、被爆したり、兵士として戦っていたかも分からない。そういった自分の家族の歴史を遡ることも考えるきっかけになります。」
先生がたにも、ぜひ戦争について子どもたちに伝えるきっかけを見つけてほしい、と多賀さんは語ります。
多賀さんが公園内を案内するときに、子どもたちに必ず見せている写真があります。


カラフルなビー玉の数々。高熱で溶けて変形したものもある。
(写真提供:広島市/公益財団法人広島市文化財団文化財課)
これは、平和記念資料館の地下から掘り出されたビー玉だそうです。色鮮やかなビー玉を見た子どもたちの表情からは、少し身近な出来事として感じてくれたことが伝わってくるとおっしゃっていました。ほかにも、人形や三角定規など、子どもたちの遊び道具や勉強道具もたくさん出土したそうです。
「掘り出されたものを見ると、原爆の悲惨さを感じます。子どもも大人も、そこに暮らす人を無差別に殺してしまう恐ろしい兵器だということを伝えたい。」
戦争の被害の様子を見た子どもたちは、「グロい、グロい。」「おばけみたい。」と素直な感想を漏らすこともあるそうです。そういうとき、多賀さんは「(亡くなった人が)おばけになって出たら、夢の中で何て言うじゃろうねぇ。」と語りかけます。そこには、「怖い」だけで終わらせずに、戦争・原爆の被害と未来について考えてほしいという思いがこもっているように感じました。
原爆の子の像には、この日も多くの子どもたちが訪れていた。
「原爆の子の像」は、原爆の犠牲となった子どもの一人、佐々木禎子さんの死をきっかけに建立されました。白血病で亡くなった禎子さんのお話は、今でも多くの子どもたちに知られています。
「禎子さんの物語を知ったら、どんな暮らしをしていたのか考えてみてほしい。「かわいそう。」とか、鶴を折ることで終わりにしないでくださいね。」
多賀さんの言葉は、この日平和記念公園を訪れた私たちの心にも深く響きました。子どもたちの未来と平和のために何ができるのか、これからも先生がたといっしょに考えていきたいと思います。
(取材日:2024年6月)