
2025.8.27
夏休み明けの授業を考える 第3回
前編に引き続き、夏休み明けの子どもたちに関して、発達臨床心理学を研究している福井大学・岸野麻衣(きしのまい)先生にインタビューを行いました。後編では、国語を通じた子どもたちへのフォローと、子どもたちに寄り添うとは何かということについて深掘りしていきます。
―― 夏休み明けの学校生活に対して、子どもたちが感じるつらさ。それを言語化できるように、何か国語の授業でサポートできることはあるのでしょうか。
国語の授業だけでどれだけのことができるかというと、なかなかに難しいことかもしれません。
おそらく、つらさというのは日頃から自分の感じていること、考えていることよりももっと感覚的なところで、自分でもまだ自覚化できていないような部分だと思います。ですから、もし、授業で何かサポートするのならば、そういう感覚的に感じていることを言葉にする活動を重ねるのがよいのではないでしょうか。言葉にならない感覚みたいなものを表現できるような授業や教室にするというのがだいじなのかなという気がします。
例えば、暴れたりとか泣き叫んだりとか、ある意味言葉にならなくても、そういう子はつらさを伝えられていると思うんですよね。よくない形かもしれないけれど表すことができます。逆に、内にこもってしまって、つらいことを出しづらい子もいると思います。そういう子はそれなりに過ごしているように見えるので、もしかすると予兆があるのに見えにくいのかもしれないです。
授業を乱すと感じさせられる子や、不満やつらさをよくない形ででも表す子に、先生がたの目は向きやすいとは思います。ただ、つらさを言えない子はもしかすると見逃されてしまうことがあるのかもしれない。そういう、一人一人の子が感じていることや、何かしら思っていることを、うまく言葉にならなかったとしてもどれだけ表現できるようにしていくかというところは、国語の授業とも重なってくると思います。
―― 一人一人の思いを拾うために、子どもたちに寄り添うというのはどのようなことだと考えられるでしょうか。
先生がたの中でも、「子どもたちにこういうふうになってほしい」とか、「ねばならぬ」といったことが学校の中ではどうしてもあると思います。しかし、それに縛られすぎずに、目の前の子が今どういう状態なのか、どういう状況で、何を感じ、思い、気づいているのか、考えているのかというところを、丁寧に探っていくことが寄り添うということなのではないでしょうか。
具体的には、拾い上げるかどうかはともかくとして、子どもたちの発言をまずは聞くことです。学校では、きちんとした書き言葉や、話し言葉でしっかりと自分の考えを表現することが求められがちだと思うんですけど、それがうまくなくてもその子なりの表現で表したところを先生が見取れるといいと思います。
―― 学校だけではなく、家庭と協力できるようなことは何かありますか?
家庭でも学校でも同じように、自分の生活を子ども自身がこれでいいのかと考えて作っていけるということをだいじにできるといいのではないでしょうか。でも、子どもに任せすぎて、子どもたちが好き勝手しすぎてしまうとたいへんなことになってしまいますし、すごく根気もいると思うんです。保護者自身の考えや生活もありますし、前編でお話しした、子どもが自己調整力を発揮しながら教師と子どもが共に生活を作るように、保護者と子どもで共に作っていくことに尽きるかなと思っています。
「こうあるべき」と、大人のあるべきを押し付けても、ときには子どもは反発してしまって、かえってよくないというパターンもあるでしょう。でも、子どもたちもめちゃくちゃなことは言わないですし、自分をよくしたいというふうに本当は思っているはずなので、それをうまく引き出してあげられるといいと思います。言うは易しではあるんですけどね。
―― 「これをやればいい」という、単純なことではないと思いますが、子どもたちが安心できる環境を作るために、先生がたが心がけるといいことはありますか?
子どもたちが何を言っても大丈夫だし、また同時に、何をしたらいいかが分かる環境にするということでしょうか。自分の言ったことがどういうふうにほかとつながっていくのかを学ぶことや、もし間違っていても、友達とのつながりの中でみんなの学びにつながっていくこと、そのおもしろさが生かされるといいですね。
どうしても、合っている・間違っているで判断するようになっていくと、子どもたちはすごくつらいですし、安心できないのではないでしょうか。
―― 先生が価値付けてくれる、そういう一言があることは大切ですね。
価値付けるといっても、「その発言が合ってていいね」ということではなく、どんな子でも、発言したことに価値があるので、それを見取るということです。
この間、授業をいっしょに見ていた先生が、「子どもが何か言ったときに、いちいち『ありがとう』と言う先生がいるが、それは違和感がある」とおっしゃっていたことがありました。子どもが発言したこと自体が評価されるというよりは、「それってこうだよね」「おもしろいね」と、内容に踏み込んだ価値付けができるといいなと思います。「発言したことに対して先生が感謝すると、先生が求めるから発言したり、先生の求めに子どもが従っていったりするようになるのではないか」といったことをその先生と話していました。
先生がたはお忙しいので、やらなければいけないことがたくさんあって、手いっぱいな状況でもあるかもしれませんが、子どもの表現や言葉をもっとおもしろがりながら過ごせるといいなと思います。
―― 子どもの言葉を、先生が受け止めて、おもしろがるのがだいじなんですね。
それには、ある程度の経験は必要なのかもしれないですね。
国語科の先生だけでなくいろんな先生がたと研究会をしたときに、中学校の国語科の先生が要約の学習をしていたのですが、なかなか思うとおりにいかないと悩んでいました。その先生は「自分が知っている、うまく要約をするためのこつを生徒に教えたい、身につけさせたいと思っているがなかなか難しい」と話していましたが、そこからさらに話が広がって、「教科書に則ってそのやり方を教えていっても、その場では、あるいはその教材ではできるとか、そういう国語科の授業の文脈ではできたとしても、いざ日常生活の場で、だいじではないところを延々と話していたら、それは要約ができていないということだろう」という話になりました。「国語科で付ける力とは、あらゆる教科にもつながる、社会で生きていくための力だから、国語科に閉じないでみんなでそこは考えないといけないよね」なんていう話をしたのがすごく印象に残っています。
国語は、夏休みなどあらゆる日々の生活、社会とつながっていると思うんです。ですから、そこも先生がたが意識して授業することがだいじだし、学校内で教科を超えてともに高め合っていけるとよいと思います。
―― つながりを意識すると、子どもたちにとっても学びが腑に落ちるものになっていきますね。すてきなお話をありがとうございました。