
2023.4.19
こくごレポート
前回の「こくごレポート」では、教科書教材「スイミー」を例にした「誤読」を取り上げました。今回はその続編に当たります。誤読のポイントを授業作りに生かす視点を、改めて掘り下げてみましょう。
前回は「スイミーは、いじめられていた? ――誤読のメカニズムを考える」という記事で、「スイミーがいじめられていた」と記憶している大学生が無視できないくらいに多いことを報告した。ただの記憶違いだと言えばそれまでだが、この記憶違いから誤読のメカニズムを考えると、実に面白い!
物語の読みに、いわゆる「正解」はない。ただし、「誤読」はある。
物語の読みは、読み手それぞれでよい。読み手の反応は十人十色である。だから、もちろん唯一絶対の「正解」などない。しかし、そう読んでしまうことで作品の世界観とは本質的にずれてしまう「誤読」は、確かにあるのだ。「スイミーがいじめられていた」と読んでしまうのも、その一つと言える。
こういった誤読のパターンなるものを集め、想定しておくことで、教材研究はより深く広がりのあるものになる。また、授業の中で、子どもの反応に出会ったとき、きっと落ち着いて対処できるようにもなる。そこで、今回は積極的に誤りを生かした授業づくりについて考えてみよう。
例えば、「スイミー」には、ほかにもいくつかの誤読のポイントがある。低学年の子どもたちと授業をしていると、しばしば次のような反応に出会う。
「スイミーは、きょうだいたちとまた一緒に暮らせてよかったね」
……いやいや、スイミーのきょうだいたちは、まぐろに食べられてしまったはずだ! ところが、特に一読した段階では、このように反応する子どもは少なくない。それは、なぜか。
そのとき、いわかげに、スイミーは見つけた、スイミーのとそっくりの、小さなさかなのきょうだいたちを。(※)
スイミーが見つけたものは、「スイミーのとそっくりの」魚たちである。ところが、ここを「スイミーとそっくりの」魚たちと読んでしまう子どもたちが、思いのほか多いのだ。
スイミーのきょうだいたちは、まぐろが「一ぴきのこらずのみこんだ」のである。それでも一部の子どもたちにとっては、失ったかに思われたきょうだいたちと再会し、再びまぐろに立ち向かう話として、文脈を曲げてでも読むのが自然なのだろう。しかし、それでは作品の本質からは遠ざかる。スイミーは、きょうだいを失い、それでも知恵と勇気をもって強く生きていくのである。
文脈を曲げて読んでしまう子どもたちのもう一つの誤りは、スイミーたちが最後に追い出したのが、スイミーのきょうだいたちを食べた「まぐろ」であると考えることである。
「スイミーは、きょうだいたちのかたきを討つことができて、よかったね」
しかし、スイミーたちが追い出したのは、あのまぐろなのだろうか?
あさのつめたい水の中を、ひるのかがやくひかりの中を、みんなはおよぎ、大きなさかなをおい出した。
スイミーたちが追い出したのは、「大きなさかな」と表記されている(原文では「まぐろ」が「a tuna fish」と書かれているのに対して、この部分は「the big fish」と書かれている)。しかも、「あさ」も「ひる」も追い出したとある。たった一匹の相手に、たった一回の機会に打ち勝ったわけではないのだ。原作絵本では、最後の場面には、複数の大きな魚たちの尾びれが描かれている。スイミーは、きょうだいたちのかたきを討とうとしたわけではない。もうまぐろのような大きな魚たちにおびえて暮らすことのない、より恒常的な自由を手に入れようとしたのである。
子どもは、かたき討ちのお話が大好きだ。勧善懲悪の話は、ストーリーが単線的で分かりやすい。「善」が「悪」を懲らしめる瞬間は、たしかに読み手としてスカッとするのだろう。しかし、前回の記事でも指摘したが、単純な一般化、過度な抽象化が、真理を見誤るバイアスを生む。文学作品にある枝葉をそぎ落とし、さまざまな話を「どこか聞いた話」と典型化して捉えることは、作品それぞれの価値を無視した読みにつながってしまう。
スイミーが新しく出会ったのが自分のきょうだいたちではないと言えるのはなぜか、最後に追い出すのが複数の「大きなさかな」であることにどのような意味があるのか……、どちらも授業の中でしっかり読み合っていきたいポイントである。
作品の本質から遠ざかってしまう子どもの誤読から逆照射することで、その作品の本質的な価値が見えてくる。すると、必然的に授業で押さえるべきポイントも明確になる。各作品の誤読の傾向を洗い出してみると、きっとそれぞれの教材としての価値が見えてくるに違いない。
※^教材文の引用は、レオ・レオニ(作)・谷川俊太郎(訳)「スイミー」『あたらしいこくご一下』(東京書籍、2023年)による。