こくごレポート スイミーは、いじめられていた? ―― 誤読のメカニズムを考える

2023.3.1

こくごレポート

スイミーは、いじめられていた?
―― 誤読のメカニズムを考える

岩崎直哉(富山国際大学講師)

小学校の教科書教材としてだけではなく、国民的にも広く親しまれているレオ・レオニの「スイミー」。その話の内容もきっと広く知られている……はずなのですが、そこには思わぬ誤解が? 「スイミー」をめぐる興味深い考察をお届けします。

「先生、『スイミー』って、私たちの頃と話の内容が変わりましたか?」

学生から、そう尋ねられたのは「国語科教育法」の講義の最中。この日に扱う「スイミー」の教材文を一読させたときだった。

どうしてそう思ったのか訳を聞いて、合点する。「スイミーって、仲間からいじめられていたんですよね?」と言うのだ。確かに、低学年の子どもたちの中にも「スイミーはいじめられていたのではないか」と言う子どもが一定数いる。

当該の学生の心理は、「いじめられていたスイミーが一発逆転する話」と確かに記憶しているのに、今読んでみたら全然違う気がする…というところなのだろう。

問題は、このことが特定の読者に「たまたま起こった記憶違い」ではない気がしたことだ。発言した学生の周りでは、複数の学生がうなずきながら共感を示しているのだ。

これは、大変なことが起きているのかもしれない。むくむくと湧き出す好奇心に従い、その場で緊急アンケートを行ってみる。案の定。実に53.8%もの学生が「いじめの話」と捉えていることが分かった。

Google Formsによるアンケート結果 Google Formsによるアンケート結果

後から聞いた話だが、ある学生は、帰宅後に母に同じ質問をしたところ、「え! いじめの話じゃなかったの?」と、驚かれたという。こうなると、もう国民レベルで読み違いが起こっているのではないかという疑念すら湧いてくる。

結論から言えば、「スイミーがいじめられていた」という読みは、明らかな誤読である。学生たちに、もう一度丁寧に読み直すことを促すと、全員が「いじめの話」という要素は微塵もないと落着。

では、どうして多くの人が「スイミー=いじめられっ子」という像を描いてしまったのか。「みんな赤いのに、一ぴきだけはからす貝よりもまっくろ。」どうやら、この一文のインパクトが相当強いらしい。

しかし、「一人だけ体が黒い=いじめの対象」という図式は、あまりに短絡的である。偏見による思い込みである。よくよく読めば「たのしくくらしていた」とある。仲間がマグロに食べられ、ひとりぼっちになり「かなしかった」とある。スイミーは、仲間たちとともに楽しく暮らしていたのだ。それ以上でもそれ以下でもない。いじめを疑う余地はどこにもない。

学生たちと話しながら、二つの仮説にたどり着く。一つは、「いじめられっ子一発逆転譚」に引きずられ、他作品と混同している可能性。もう一つは、「みんな違ってみんないい」的読解指導による誤概念形成の可能性。

一つ目に関しては、認知バイアスに陥り、短絡的な一般化、抽象化をしているのではないかという懸念である。「醜いアヒルの子」に代表されるように、容姿の違いから仲間外れにされている者が、物語が展開することで逆転現象を起こす筋書きは、確かに数多く存在する。

「スイミー」も「いじめられっ子が逆転する話」と単純化しておけば、記憶にとどめやすく、認知的な負荷は軽い。人間は、さまざまな物事を一般化、抽象化して理解することで、膨大な情報を記憶する能力を獲得した。

しかし、単純な一般化、抽象化は、真理を見誤るバイアスを生むことも事実だ。文学作品にある枝葉をそぎ落とし、さまざまな話を「どこか聞いた話」と典型化して捉えることは、作品それぞれの価値を無視した読みにつながる。スイミーはいじめられていたのだと思い込むことで、物語の価値(本質)からは遠いところで読みの活動が展開されることになる。

二つ目に関しては、曲解により間違った形で広がってしまった読者論に対する懸念である。読みは読み手の主体的な読書行為で成立するものであることに異論はないが、それは子どもたちのどんな読みも許容することとは違う。

「スイミー」の学習の中で、「スイミーはいじめられていたのではないか」という声があれば、しっかり否定するべきである。「スイミーはいじめられていたのかも…」という声に、「そうかもしれないよね」という曖昧な評価で、行き過ぎた勘ぐり(誤読)を許容してはいないだろうか。

もちろん、「それは違うよ」といった直接的な指導では、子どもが納得しないかもしれないし、読みの力にもならない。「なぜ、そう思ったのかな?」と読み直しを迫りたい。落ち着いて読んでみれば、むしろ楽しく平和に暮らしていたことが確認されるはずである。

また、「みんなは、どう思うかな?」と周りの子どもたちと問題意識を共有することも大切である。どんな読みが許容されて、どんな読みが否定されるのかということを知るための、大切な学習機会になるだろう。

物語の読みに、いわゆる「正解」はない。ただし、「誤読」はある。学生の素朴な疑問は、物語を読むということはどういうことか、物語の読みの授業とは何かという本質的な問題を提起してくれた。「誤読」から考えてみると、読みの授業がますます面白くなる。機会があれば、別稿で続きを論じたい。

興味深いレポートをご寄稿いただいた、富山国際大学の岩崎直哉先生 興味深いレポートをご寄稿いただいた、
富山国際大学の岩崎直哉先生

ほかの記事を読む

TOPへ