
2026.6.24
みんなの読み物(創作)
今回の「みんなの読み物」は、作家の河﨑秋子さんによる物語です。2024年に直木賞を受賞するなど注目の書き手である河﨑さんの作品をお楽しみください。
康太は腹が立っていた。冬休みのよく晴れた昼前、両親はそれぞれ仕事に行っていて、家には自分ひとり。怒りをぶつける相手もいない。
リビングに差し込む日の光はぽかぽかと康太の体を温めてくれる。とても穏やかだ。
けれど、康太のいらだちは収まらない。
宿題をやる気にはならないし、ゲームはこの間クリアしてしまった。やりたいことがない。だから余計に、怒りが頭の中でぐるぐると渦を巻き続けていた。
そういえば、まだお昼ご飯を食べていない。お母さんが「冷凍庫から出してレンジで温めて食べてね。」と言っていたミールキットは康太が好きなチーズ入りハンバーグだけれど、素直にそれを食べる気にはなれなかった。
「誰が言われた通りになんてするもんか。」
言いなりになんてならない。自分で勝手に好きなものを作って食べてやる。康太は立ち上がると、台所に向かった。
冷蔵庫と食料棚から、目当ての食材を取り出す。パック入りご飯、のり、卵、ランチョンミートの缶詰。これさえあれば、好物のポーク卵おにぎりができる、はずだ。
康太はほとんど毎日、晩ごはん作りを手伝ってきた。お母さんから「やって。」と言われると、「ええー。」と口をへの字に曲げつつも、実は手伝いは嫌いじゃなかった。
フライパンでものをいためる時の箸の動かし方、卵の割り方、包丁の持ち方についてなどのコツを思い出しながら、手を動かしていく。
「泡立てないように、箸の先をボウルの底につけて、白身を切るようにささっと。右手で包丁を持って左手はネコの手で。」
お母さんに言われた時は、たまに「うるさいなあ、やってるよ。」と口答えしながらも、こうして一人で作業をしていると、言われた言葉ひとつひとつをちゃんと守ってしまう。
それがちょっと面白くなくて、康太は卵をかき混ぜながら、「うそつき。」と、ここにはいない両親をなじった。
「子犬飼うって言ったのに。」
下唇をかむと、目頭がきゅっと押されたように熱くなった。そして、友達の家で見せてもらった、シェルティの子犬を思い出す。茶色で、ふわふわで、黒い目はくりっとしていた。
よかったらこのうち一匹の里親にならない?というお誘いに、両親は「いいねえ、うちもそのうち飼いたいと思ってたし。」と賛成してくれた。あの時、康太は天にも昇る気持ちだった。
子犬を飼える。想像の中で、うちにきた子犬はいつも康太にくっついて歩いていた。家の庭で一緒に転げ回って遊ぶ。全速力でかけっこする。そのうち大きくなったら、母犬のようにシュッと鼻の長い、かっこいい犬になるだろう。
そんな幸せな夢は、子犬がくる前に突然消えてしまった。両親の仕事の関係で、五年生の修了式が終わったら、都会に引っ越すことになったのだ。
「引っ越し先の賃貸マンションは、ペット飼育可で小型犬なら飼えるらしいよ。」
お父さんは康太をなだめるように言った。でも、シェルティは狭い新居にはだめだという。だから、今は諦めるしかない。
「仕方ないよ。トイプードルでもシーズーでも、違う種類でもかわいいじゃない。」
お母さんはそう言って、こちらを説得にかかってきた。康太だって、頭のすみっこでは仕方ないと思うし、他の犬種もいいと思う。でも、やっぱり悲しくて、辛くて、泣いて抗議して、それからほとんど、両親とは口をきかなかった。それが三日前の話。まだ康太の怒りは続いている。
思い出したら、また目のあたりがじわっとした。袖でぬぐって、パックご飯をレンジで温める。
それから、薄焼き卵を作る。コンロを使うのはだめだと言われているから、お皿にラップを敷いて、といた卵液を広げるように流し入れる。それをレンジで加熱すると、外側からじわじわ固まってくる。十秒ずつ追加して様子をみながら加熱すると、ちょっと厚めの薄焼き卵ができる。
のりを置いて、中央にほぐしたご飯と、薄焼き卵と、切ったランチョンミートを重ねる。四隅の余ったのりをたたんで四角にすれば、ポーク卵おにぎりのできあがりだ。のりから少し米粒がはみ出ているけど、いいことにする。
手を動かしているうちに、康太の気持ちは少しずつ落ち着いてきていた。シェルティの子犬を飼えないのはまだ残念だ。けど、まったく新しい場所で、違う種類の子犬を飼うことになっても、たぶん自分はその子を大事にするだろう。
康太はおにぎりを皿に移し、ダイニングの椅子に座ってかぶりついた。
お母さんの作ったものよりも塩気がうすく(たぶん、ご飯にほんのちょっとの塩を混ぜるべきだった)、ご飯も少しかたい。
でも、自分で作ったポーク卵おにぎりは味の他に満足感があった。康太は大きな口でかぶりついて、口の端の米粒をぬぐいながら「みてろよ。」と言った。
もっと練習して、もっとおいしいポーク卵おにぎりを作れるようになる。新しい場所でもうまくやる。小型犬をかわいがる。
そして大人になったら、庭のある家に住んで、今度こそシェルティを飼うのだ。
やりたいことリストを心に刻みながら、康太はもう一口、おにぎりを頰張った。
河﨑秋子(かわさき・あきこ)
1979年、北海道生まれ。三浦綾子文学賞、新田次郎文学賞、直木賞など受賞多数。