
2026.2.18
野矢先生に、きいてみよう!
野矢茂樹(のやしげき)先生とともに「国語」について考えるシリーズ。これまで4回にわたってお便り回をお送りしてきました。最終回となる今回は、生徒たちに伝えたい「読む楽しさ」、そして「国語力」について考えたいと思います。
Q 年々、活字を読もうとしてくれない子どもたちが増えています。低学年のうちは、音読をして教科書を読む機会があっても、小学校4・5年生になると長い文というだけで、教科書を読もうとしない、毛嫌いしてしまう子どもたちが増えています。読む楽しさを、どう教えていけばよいのか、楽しみながら、読む力をつけるにはどうしたらいいか悩んでいます。
「読む」ということは多面的ですが、読むことによって何が得られるのかによって、おおまかに三つに分類できそうです。つまり、読むことによって情報が得られる、楽しみが得られる、新しい見方・考え方が得られる。もちろんこれらが混在していることもふつうにあります。しかしいまはこの三つの側面を区別して、それぞれについて考えてみましょう。
(1) 実用文は情報を得ることを主たる目的とします。生活は実用文に満ちていますし、国語以外でもあらゆる教科書の説明は実用文です。ですから、実用文を読み、的確に情報を読み取る力はすべての学習の、そして生活や仕事の基礎となります。
ここでなによりもだいじなのは、生徒が関心をもてるような文章を教材にするということです。それはひとつには、もともと生徒たちが関心をもっているような話題についてということですが、すべての生徒に共通の関心というのも難しいでしょう。そこで次は、読んで「へえ」と思えるような情報を与えることです。とにかく何か生徒が食いついてくるような内容を探さねばなりません。
ただし、ここでやりがちになるのが、そこに書かれてある内容を教える授業をしてしまうことです。例えば地球温暖化についての文章を教材としたときに、地球温暖化についての解説をすることが授業の目的であるかのようになってしまっては、それはもう国語の授業ではありません。国語は、そこに書かれている内容を教えるのではなく、その文章をいかに的確に読み取るかを教える、言語学習です。
(2) 実用文と異なり、小説は多くの場合に楽しむために読みます。そして小説の楽しみにもいくつかの側面があります。まずはキャラクターの魅力。それから、読ませるストーリー展開。こうした分かりやすい面白さから入っていく。その学校、学年の生徒たちの多くが楽しめるような小説を教材として選びたいものです。小説を読み慣れてくると、その構成や語り方にも目がいくようになり、それも大きな楽しみになります。例えば、伏線の張り方、その回収の仕方、語り手の視点など。あるいは、あえて回収せずにあとは読者にゆだねるという書き方もあり、その場合には自分の中に引き取ってあれこれ考える楽しさもあります。
とはいえ、いきなりこのレベルの楽しさへと誘おうとしないことです。段階を追って、分かりやすい楽しさから、分かりにくい楽しさへと引き上げていくのです。こうした教育の目的は、小説をよりいっそう楽しめるようになることです。
関連して、こんな質問もありました。
Q 素朴な疑問なのですが、中学校の教科書で「走れメロス」がずっと載り続けているのは、どうしてなのでしょうか?
個人的には、「走れメロス」はそんなに面白い小説とも思えないのですが、しかし定番の教材というのは必要です。教師は、ここの箇所で生徒はこう反応してくる、ここでこう問いかけると読み方が深まる、といった経験を積んでいきます。もし毎年違う小説を扱わなくちゃいけなかったら、教師もたいへんでしょう。しかし、ほんとになんで「走れメロス」なんでしょう。もしかしたら「友情」「信頼」「正義」といった倫理観を教えたいという気持ちがあったのかもしれません。でも、私に言わせれば、それは「道徳」の守備範囲で国語の為すべきことではありません。
小説の楽しみのもうひとつは、言葉そのものの面白さです。これは初心者から熟達者まで共通のもので、音やリズムの面白さも含みます。ですから、声に出して読むというのは、別に小学校低学年だけでなく、あらゆる学年で実行してよいものだと思います。
(3) 読むことによって得られる三番目のものは、新しい見方・考え方です。これは評論文に特徴的でしょうが、もちろん小説からも得られます。いまの自分にない見方や考え方が示されていると、ただちに共感したり理解したりすることができません。そこで、じっくりと、考えながら読まなければいけない。力のある先生ほど、こうした評論文や小説を読み解く授業に喜びを見出すのではないでしょうか。しかし、生徒のレベルを無視してそのような授業をしても、むなしいだけでしょう。
国語は、とくに高校の授業は、読解中心になりがちです。そして力のある先生は教壇で生徒が思いつかないような鋭い洞察や分析を開陳するかもしれません。だけど、少しきつい言い方をすれば、それはやってはいけないことだと思うのです。国語の授業の目標は、生徒が読むことに関して自立することです。学校を離れて一人で小説や評論文を読んで、より深く楽しめるように、より豊かなものを得られるようにすることです。ならば、授業は生徒のちょっと先を行くぐらいでなくてはいけません。名人芸を披露するのではなく、「これなら自分にもできそう」と思わせることがだいじなのです。
さて、最後にこんな質問が来ていました。
Q ズバリ「国語力」とはどのような力だとお考えですか?
「ズバリ」って、そんな、無理でしょう。ほとんど無内容な答えを返すならば、「言葉を使う能力」ですけど、言葉を使う能力というのも多面的です。言葉を使ってコミュニケーションする力。言葉を使って考える力。そして言葉を楽しむ力。まずは、こんなところで勘弁してください。