みんなの読み物(創作) 理科室の幽霊

2026.1.14

みんなの読み物(創作)

理科室の幽霊

村上雅郁(児童文学作家)

今回の「みんなの読み物」は、児童文学作家の村上雅郁さんによる物語です。『あの子の秘密』や『かなたのif』などの話題作を次々と発表してきた村上さんの短編物語をお楽しみください。

「今日の放課後も、理科室に行くから。」
 朝、ちゃんは私に言った。ようするに、いっしょに来い、という意味だった。
 正直、私は行きたくなかった。早く家に帰ってゲームとかしたい。今日は塾も休みだし、お菓子を食べてだらだらしたい。
 しかし、私に拒否する権利はない。いや、権利というか、拒否する能力がない。
 沙夜ちゃんの大きな黒い瞳にじっと見つめられると、「……分かった。私も行く。」以外の言葉は出てこなくなってしまう。ここで「いや、私は家に帰ってゲームをする。」とは、とても言えない。そこまで自分の意思を貫き通す力はない。
 普通に無理。
 六年一組の教室で、算数の授業を聞きながら、私は既に憂鬱だった。
 窓の外では雨が降っている。

 放課後の理科室に女の子の幽霊が出るらしい。
 そのうわさが流れ始めたのは、五月の終わりのことだった。
「なんかあ、昔この学校に通っていた子らしいんだけどお、自分がねえ、亡くなったことに気づいていないんだってえ。理科室に忘れ物をしたのを思い出して、幽霊になって探しに来ているんだってえ……。」
 そういう感じの話がすきな子たちが、そういう感じで話しているのを私も聞いたことがある。ふざけんなよなと思う。沙夜ちゃんがいるのに、クラスでそんな話をしちゃだめだよ。少しは他人の気持ちを考えなさいよ。
 しかし、そこまで仲良くない子たちが楽しくうわさ話をしているところに「そんな話しないで。」と割り込むことができる私ではない。私にそんな権利も能力もない。
 なのでそのうわさはすぐに沙夜ちゃんの耳に入った。
「おもしろいじゃない。」
 沙夜ちゃんはいつもの無表情で、それでも楽しそうに言った。
「これはチャンスだと思う。私、これから毎日、放課後理科室に行くことにする。」
 それから、沙夜ちゃんは大きな黒い瞳でじっと私を見つめた。

 二人で放課後の理科室に忍び込むようになって、そろそろ一週間になる。
「誰も来ないわね。」
 電気のついていない薄暗い理科室で、沙夜ちゃんはいつもの無表情だ。だけど、いいかげん、退屈してきたのだということが、その声の調子から伝わってきた。
「結局、うわさが流れるだけで、誰も本当のことを確かめようとはしないのね。教室で好き勝手に話題として消費できれば、それで満足なのかも。」
「そういうものかもね。」
 私がうなずくと、沙夜ちゃんは言った。
「一人か二人でいいから、来てくれないかな。怖い話がすきな低学年の子とか。そうしたら、あなたが迫真の演技で脅かして……。」
「え、私が脅かすんですか?」
 思わず敬語になってしまった。沙夜ちゃんは心外そうな顔をした。
「あたりまえでしょ。」
 私は何も言えなかった。沙夜ちゃんはうつむいた。
「せっかくチャンスだと思ったのに。あのうわさを聞いて放課後の理科室を訪ねてくるような子たちがいれば、もしかしたら私のことも……。」
 沙夜ちゃんはやっぱり無表情だった。それでも、がっかりしているのが分かった。
「……今のままじゃだめなの?」
 私は尋ねる。沙夜ちゃんは黒い大きな瞳で、私のほうを見た。
「何?」
「……何でもない。」
 私は首を横に振る。そして小さくため息をつく。
 しばらく沈黙があった。窓の外から、誰かのはしゃいでいる声がする。にぎやかに友達どうしでつるんで、これから家に帰るのだろうか、楽しそうな声。
「一人は寂しいから。」
 ぽつりと、沙夜ちゃんは言った。
「怖がられてもいい。みんなに私がいることを知ってほしい。」

 私がいるじゃん。
 そう言いたかった。だけど、私には言えない。
 もう一年もせず卒業してこの学校から出ていく私に、そんなことを言う権利はない。
 一年生のときに出会い、それからずっといっしょに過ごしてきた沙夜ちゃんのことを、どんなに大切に思っていても、いや、大切に思っているからこそ、その気持ちを伝える能力が、私にはない。
 震える沙夜ちゃんの白い手を、私はそっと握ってあげたかった。
 だけど、私は彼女に触れられない。
 私の手は沙夜ちゃんの手をすり抜ける。指先に冷たくて固い床の感触。
「私のことが見える子が、もっとたくさんいればいいのに。」
 沙夜ちゃんは言った。私は黙っていた。
 何十年も独りぼっちでこの学校にとりついている沙夜ちゃんに、たかだか六年間しかいっしょにいられない私の言葉なんて、届くはずない。
 だけど……。

「……私が、いる、じゃん。」
 絞り出した声はかすかで、みっともなく震えていた。
 耳のあたりが熱くなって、泣きたくて、私は沙夜ちゃんの顔を見れない。
 しばらくして、沙夜ちゃんはそっと立ちあがると、スカートの裾を払って言った。
「明日の放課後も、ここに来るから。」
 私は小さく笑って、分かってる、と答える。それから、そっと目元をぬぐった。
 分かってる―― 私は、その言葉の意味を、本当はちゃんと分かっている。

 一か月もしないうちに、理科室の幽霊のうわさは聞かれなくなった。
 それでも、沙夜ちゃんはまだ、放課後に私を誘って理科室に向かう。

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村上雅郁(むらかみ・まさふみ)

1991年、神奈川県生まれ。『あの子の秘密』(フレーベル館 2019年)で第49回児童文芸新人賞、『りぼんちゃん』(フレーベル館 2021年)で第1回高校生が選ぶ掛川文学賞をそれぞれ受賞。ほかの著書に『きみの話を聞かせてくれよ』(フレーベル館 2023年)、『かなたのif』(フレーベル館 2024年)など多数。

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