古典に親しむ 心ときめきする古典

2025.9.17

古典に親しむ

心ときめきする古典

イザベラ・ディオニシオ

知れば知るほど、古典はおもしろい。イタリア語・英語翻訳者および翻訳コーディネーターのイザベラ・ディオニシオさんは、大学時代に日本文学に出会ったといいます。日本の古典文学を好きになったきっかけやその魅力についてお書きいただきました。

私が日本の古典文学に一目惚れしたのは、大学のときだ。

日本語を専攻に選ぶと、長大の古典作品のリストを手渡されて、最初はかなり戸惑ったが、当時通っていたヴェネツィア大学の附属図書館に入って、恐る恐る課題本を探し始めたのだ。埃の匂いがほんのり漂う古びた本を手に取った瞬間、世界がまるで違って見えたのを鮮明に覚えている。ページをめくるたびに、昔の人々の声が、時空を超えて私に語りかけてくれるようだった。菅原孝標女のささやかな夢、紫式部の緻密な心理描写、藤原道綱母の苦悩や不満、和泉式部の和歌に織り交ぜられた甘い情熱……。ページを閉じても、余韻が心の奥底に残り、日常の風景がふとその感覚に染まる瞬間があった。

『源氏物語』をはじめて読んだとき、それは1950年代に刊行されたイタリア語版だった。その次には英語訳も読んだが、どのバージョンを取ってみても、物語の世界観が不思議な魅力に溢れており、日本語で読めばどんなに素敵だろうと、妄想に耽る自分がいた。

そんな古典漬けの毎日を送っていた私は、いざ日本に留学することが決まったとき、とてもワクワクしていた。まさか日本に行ったら光源氏様のような人に出会えるなんて思っていなかったけれど、周りの日本人から文学の話をたくさん教えてもらえるという淡い期待を胸に、大きなスーツケースを引きながら出発したのである。

だが、しかしだ。留学先の大学では素晴らしい先生や仲間に恵まれたものの、その外で知り合った人は文学、ましてや古典に興味を示さないことが多かった。誰に聞いても、とにかく古典は古臭いもの、高校生のときにものすごく苦労させられた記憶しかないという。

優雅に恋愛を楽しむ光源氏や在原業平、霞んだ月を見上げて袖を濡らす女房たちのどこがダサくてつまらないの!? と彼らの感想に心底驚いて、私は長いあいだ周りに古典の話をするのを封印していた。とはいえ、落ち込んだときや不安に襲われたときなど、本棚に手が勝手に伸びて物語を探し続けたのだ。

日本語の読解力が少しついてきた頃、まずは『源氏物語』のいろいろな現代語訳に挑戦してみた。それはとても楽しい読書だったが、同時に原文に触れてみたいという気持ちをさらに強くしてくれた。そこから先は、じっくり時間をかけて言葉をひとつずつ味わいながら、さまざまな表現をほどいていく作業に夢中になっていった。そうしていると、思いがけない発見が私をいつも待っていて、そのたびに、「ああ、やっぱり楽しい!」と心から感じずにはいられなかった。

例えば、『源氏物語』の第五帖「若紫」。光源氏が若紫と運命的な出会いを果たす名場面。

病気にかかった光源氏は加持祈祷のために、北山に出向く。そこには病気を治せる力を持つ老人がいるからだ。治療の中休み、気晴らしに外へ出た光源氏は高台から景色を見下ろし、立派な屋敷があることに気づく。「そこには素敵な姫様が住んでいるに違いない」とテンションが昂り、彼は覗きにいくことを決心。病気で弱っているはずなのに、ずいぶん元気だこと。

その様子は次のように描かれる。

人々は帰し給ひて、惟光ばかり御共にて、のぞき給へば、ただこの西面にしも、持仏すゑ奉りて、行ふ尼なりけり。簾少し上げて、花奉るめり。(

いわゆる何の変哲もない地の文だ。

光源氏が惟光と二人きりで例の家を覗きに行く。そこには尼さんと思われる人が花をお供えしているのが見えたという。たったそれだけだ。

しかし、このテキストを読んでいたら、最後の「めり」が目にとまる。

推定の助動詞「めり」は「見あり」が語源だとも言われており、視覚に基づいた推定に用いられるものだ。ということで、この一文は語り手の視点ではなく、垣根の隙間から家の中を覗こうとする光源氏の視点から書かれている。言い換えれば、私たちはその「めり」のおかげで、光源氏の目を通して、物語内の世界を見せられているわけである。

そうだとわかった瞬間、私の妄想スイッチが早速作動する。

夕暮れ。そろりそろり垣根に近づく。目を凝らして、中を覗き込む。そこには……あ、普段はおろしたままになっているはずのすだれが巻き上げられている! 女の人の輪郭が見えるが、それは四十代の尼さんなのか……なんてそんな図が頭の中に出来上がってしまう。期待が大きかった分、光源氏はちょっと落胆気味になっているはず。

若紫が登場するときも、推量・推定のニュアンスを帯びた表現が多く用いられる。例えばこちらの一文。

中に、十ばかりにやあらむと見えて、白き衣、山吹などのなれたる着て、走り来たる女ご、あまた見えつる子供に似るべうもあらず、いみじく生ひ先見えて、美しげなるかたちなり。

【超訳】

そのなかで、十歳ぐらいだと思われる女の子が猛ダッシュで走ってきた。彼女は白い下着に山吹がさねの着慣れたものを身に着けている。他の子たちと比べられないほど、美人になるだろうと将来が楽しみ。

ここでは推量の助動詞の「む」が使用され、「見ゆ」という動詞が数回出てくる。文章が光源氏の視線を追っているかのように、新しく登場してきた可愛らしい少女の姿をしっかりと捉えている。

さっきまでのしょんぼり顔はどこへやら、今や光源氏の胸の鼓動が聞こえてきそうだ。読んでいるこちら側も、まるで恋の始まりを覗き見しているような、ちょっと得した気分にさせられる。

1000年以上もの月日を経て人々を楽しませてきた文章なだけに、古文にはさまざまな仕掛けが施されている。今の日本語にも通じる技巧もあれば、古文特有の表現方法もいろいろある。

テキストに散りばめられているヒントを拾っていると、時間はゆっくりと流れ、大学の附属図書館の窓際に座っている自分に戻る。あのとき恋に落ちた古典は、今も私の心をドキドキさせてくれているのだ。

【参考】

^『源氏物語 第1巻 付現代語訳』玉上琢弥・訳注(角川書店、1964年)


イザベラ・ディオニシオ

イタリア語・英語翻訳者および翻訳コーディネーター。著書に『平安女子は、みんな必死で恋してた イタリア人がハマった日本の古典』(淡交社)『女を書けない文豪オトコたち イタリア人が偏愛する日本近現代文学』(KADOKAWA)『悩んでもがいて、作家になった彼女たち イタリア人が語る日本の近現代文学』(淡交社)がある。

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