
2025.6.11
野矢先生に、きいてみよう!
ふとした瞬間に、「国語を学ぶことって、どういうことなんだろう?」と思ったことはないでしょうか。当たり前のように学びつつも、どこか捉えどころのない「国語」。そんな「国語」のことを、哲学者であり、『新編 新しい国語』(東京書籍)の編集代表でもある野矢茂樹(のやしげき)先生とともに考えてみたいと思います。
日本語を母語としているのだから、学校で勉強しなくてもだいじょうぶ。そんなふうに思っている生徒も多いかもしれない。さらに言えば、国語は勉強しても試験の成績はとくに伸びないし、というのでせいぜい漢字の勉強をする程度というのは、おそらくいまも昔も変わりはない。この状況をどうすれば変えていけるのだろう。いや実際、国語というのは学べば学ぶほど力がついてくるものなのである。だが、何を、どう学べばよいのか、国語の学習に前向きになれない生徒たちは、まずそれが分からないだろう。だから、なによりもまず、教える側が、国語において何をどう学ばせたいのかを明確にしておかねばならない。
やっかいなことに、国語という科目には大まかに分けて二つの側面がある。ひとつは、基本的な日本語運用能力を育て、鍛えること。そしてもうひとつは、詩歌や小説に代表される言語文化・芸術を吸収することである。もちろん両者はまったく分離しているわけではない。文学作品の言語表現を学ぶことは生活にも反映されるだろうし、また日常生活の中でも、例えばどのように慰めの言葉をかけるかとか、どのように自分の喜びを表現すればよいのかといったときには、実用的な散文以上の言葉の力が求められる。とはいえ、基本的な日本語運用能力を鍛えるという方向と、言語文化・芸術を吸収することは、方向としてはかなり違うものと言える。そこで一応の区別として、前者を「ふだん使いの言葉を学ぶ」ことと呼び、後者の言語文化・芸術を吸収することから切り分けておきたい。その上で、ふだん使いの言葉を学ぶことの重要性を強調したいのである。最初に述べた、「日本語なんだからいまさら学ぶ必要はない」という思いは、まさにふだん使いの日本語についての ―― 誤った ―― 思いにほかならない。
ふだん使いの言葉を学ぶことは、あらゆる学習の基礎になるものである。2018年に新井紀子さんが、いまの子どもたちはそもそも教科書が読めないと、データをもとに示して大きな反響を呼んだ。(※)(私の見るところでは、それは教科書の文章にも問題がある。もっと生徒たちが誤解なくすっと頭に入ってくるような文章にできるはずだと思うのだ。その意味では、大人たちにも国語教育が必要なのだろう。しかし、いまその点はおいておこう。)教科書で説明に用いられる日本語は、言うまでもなくけっして芸術的な言葉ではなく、ふだん使いの言葉である。それゆえ、ふだん使いの言葉を運用する力がなければ、教科書もきちんと読めないことになる。したがって、基本的な日本語運用能力を鍛えるという国語の側面は、たんに国語という教科を超えた、すべての学習の基礎となるべきものにほかならない。
だとすれば、現状を無視して理想論を述べさせてもらおう、基本的な日本語の能力を鍛える基礎科目を作ってもらいたい。とはいえ、先に述べたように、言語文化・芸術としての国語教育の側面とふだん使いの言葉を鍛える側面は単純に切り離すことができない。ならば、国語の授業時数を少なくともいまよりももっと(1.5倍ほどだろうか)増やしていただきたい。……無理だろうなあ。でも、国語という教科は、たんに他の教科に並ぶ一つの教科というに留まらず、あらゆる教科の基礎となる特別な側面をもっているのである。そのことを考えるならば、なんとか国語の授業時数を増やしたいとは思う。だがそのためには他の教科の授業時数を減らさなければならないし……。
授業時数のことは遠いまなざしで「いつかきっと」と胸に秘めておくとして、ふだん使いの言葉を教えるということがどういうことなのかをもう少し考えてみよう。私はふだん使いの言葉という言い方をするが、これはだいたい「実用文」と呼ばれてきたものに対応する。ただし、「実用文」という言い方は不幸なイメージを伴いがちであるように思われる。例えば、駐車場の契約書などが想像され、少なくとも契約書の読み方を教えるなどは多くの国語教師が拒否反応を示すに違いない。契約書などでも国語のよい問題は作れると思うのだが、拒否反応を起こすのもよく分かる(私などは契約書を見てもほぼ何も読まないクチである)。だが、忘れないでいただきたい。すべての教科書の説明は実用文である。あるいは、新書などはよい教材になると思うが、新書の文章も基本的に実用文である。
「実用文」とは何か。それに対して私は、「要約してもそれほど価値が減らない文章」と答えたい。他方、詩歌を要約したらその価値は破壊される。小説もそうである。ときに小説の内容を要約して、そこに描かれたある人物の行動について考えるといった授業も為されはするだろうが、小説を味わうということは、まさに「推す」か「敲く」かで選び抜かれた言葉を味わうことであり、要約してしまったらその価値は大幅に失われてしまうことになる。
だが、伝えたい内容がある文章は、その内容を要約しても、伝えたい内容が保存されているならば、その価値の減少は少ないか、あるいはゼロだろう。そしてそのような文章のほうが、実のところ世の中には多いのである。
伝えたい内容がある文章を読んで正確にその内容を理解すること、そしてまた伝えたい内容を的確に表現できること、ふだん使いの言葉を教える授業の目標はそこにある。そのためには従来の読解中心の授業を変えていく必要がある。私が以前在職していた大学の国語の入試問題を作成した教員からこんな話を聞いたことがある。 ―― それはいい文章だったんだよ。みんなで読んで、ああ、いいねえ、と感心した。でも、問題には採用されなかった。一度読めば分かっちゃう文章だったからね。 ―― しかし、ふだん使いの言葉を教える授業では、一度読めば誤解なくすっと分かる文章を読み、書くことが目指される。
そういう文章、難解な文章でも名文でもなく、いわゆる達意の文章を教材としてどういう授業をすればよいのか。おそらくそのノウハウがまだできていない。希望をこめて言うならば、できつつあるけれども、まだ十分ではない。とくに高校の国語は出遅れている。その理由は、それでは入試問題が作れないからだ。だから、入試問題を変えていかなければいけない。……また、遠いまなざしになってしまった。しかし、遠い未来の話でも、理想論でも、どうあるべきかをしっかり押さえておかなければ変わっていくはずもない。ふだん使いの言葉を教える授業としてどのようなことが考えられるのか、次回、もう少し考えてみよう。
※^『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』新井紀子/東洋経済新報社/2018
野矢茂樹(のや・しげき)
1954年、東京都出身。哲学者。中学校国語教科書『新編 新しい国語』(東京書籍)の編集代表を務める。著書に『哲学の謎』(講談社)、『論理トレーニング101題』(産業図書)などがある。