
2024.10.23
教材探検隊
第5回目となる「教材探検隊」。今回は、中学校国語の定番教材である「故郷」の作者・魯迅の仙台留学時代を取り上げます。
魯迅の「故郷」といえば、言わずと知れた、中学校国語の定番教材。1952(昭和27)年に初めて教科書に取り上げられて以来、現在でも、中学3年生の各社の教科書に掲載されています。
「思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」(「故郷」より)
そう締めくくられるこの小説は、厳しい社会の中を生き抜こうとする人々の姿を通して、新しい生活を、そして希望を持つことの意味を今なお私たちに問いかけてきます。
ところで、「故郷」に描かれた細部の印象(例えば、語り手の「私」の幼なじみであるルントーが、月夜の海辺の砂地で刺叉を手に、「チャー」と呼ばれる動物を突こうとする場面など)を鮮やかに思い出すことはあっても、魯迅その人については、漠然としたイメージしか浮かばない、というかたもいらっしゃるのではないでしょうか。
そこで、今回の「教材探検隊」では、魯迅その人についての理解を深めるべく、仙台に留学していた頃の魯迅にスポットライトを当てました。
魯迅が仙台初の外国人留学生として、東北大学医学部の前身である仙台医学専門学校に入学したのは、今からちょうど120年前、1904(明治37)年のことでした。早速、魯迅の足跡を訪ねて、魯迅記念展示室のある東北大学史料館へと向かいます。
東北大学片平キャンパス内に据えられた「魯迅先生像」。
と、東北大学史料館に向かう道の途中で、なんと、魯迅自らお出迎えが…! 思わず、「魯迅老師!」(「老師」は中国語で「先生」の意)と心の中で叫んでしまいました。
魯迅記念展示室は、東北大学史料館の2階にあります。2011年に開設されたこの展示室には、東北大学が保存または収集した、魯迅の関連史料が数多く公開されています。史料は時系列に沿って展示されており、魯迅の仙台での歩みを分かりやすくたどっていくことができます。
魯迅記念展示室の様子。
展示史料の中には、弊社の高校の国語の教科書も!
中国の浙江省紹興に生まれた魯迅が、官費留学生として海を渡ったのは、1902年の春のことです。初め魯迅は、東京の弘文学院(中国人留学生向けの学校)で学びましたが、その卒業後、ほかに留学生が誰もいない土地を求めて、仙台医学専門学校へ進学を決めます。
仙台医学専門学校学校長宛の入学願。
魯迅の本名である「周樹人(シュウジュジン)」の署名・捺印が見られる。
さて、仙台留学時代の魯迅を語るにあたって、決して外すことができないのが、藤野厳九郎先生との出会いでしょう。当時、解剖学の講義を受け持っていた藤野先生との交流は、やはり高校の国語の教科書に採られることの多い名作「藤野先生」に詳しく描かれています。
なかでも、魯迅に毎週の講義ノートを提出させ、赤字の添削を藤野先生が行ったというエピソードは、教師と生徒という関係を超えて、日中の友好と、中国の発展に陰ながら努めた藤野先生の人柄を伝えるものとして有名です。
藤野先生が添削した魯迅のノート(複製)。朱筆による丁寧な添削の跡がうかがえる。
ところで、もともと医学を志していたはずの魯迅は、いったいいつから文学の道を目指すようになったのでしょうか。実は、その転機というのも、この仙台医学専門学校の講義の最中にあったとされています。
そのきっかけは、第2学年に上がった魯迅が、講義で見た日露戦争の幻灯写真にありました。幻灯というのはスライドの映写機のことですが、そのとき魯迅は、ロシア軍のスパイとして日本軍に捕らえられ、銃殺される中国人と、その囚人を取り巻くやはり中国人の群衆とを目撃することになったのです。
「『万歳!』万雷の拍手と歓声だ。
いつも歓声はスライド一枚ごとにあがるが、私としては、この時の歓声ほど耳にこたえたものはなかった。のちに中国に帰ってからも、囚人が銃殺されるのをのんびり見物している人々がきまって酔ったように喝采するのを見た。――ああ、施す手なし! だがこの時この場所で私の考えは変わった。
第二学年の終わりに私は藤野先生を訪ねて、医学の勉強をやめたいこと、そして仙台を離れるつもりだと告げた。」(「藤野先生」より)
仙台医専で使用された幻灯用のガラス板。展示の解説文には、
「日露戦争の場面が描かれる。魯迅が述べているような『処刑』の画面は見あたらない。」とある。
のちの第二次世界大戦末期に、作家の太宰治が、魯迅の仙台留学時代を題材にした「惜別」という小説を書いています。そこで太宰は、この「幻灯事件」について、語り手の「私」の口を借りて、このように書いています。
「ひとの話に依れば後年、魯迅自身も仙台時代の追憶を書き、それにもやはり、その所謂『幻燈事件』に依って医学から文芸に転身するようになったと確言しているそうであるが、それはあの人が、何かの都合で、自分の過去を四捨五入し簡明に整理しようとして書いたのではなかろうか。人間の歴史というものは、たびたびそのように要領よく編み直されて伝えられなければならぬ場合があるらしい。」(「惜別」より)
もちろん、今となっては、医学から文学への魯迅の「転向」がどのような真意に基づいていたのか、私たちには知るすべはありません。しかし、中国近代を代表する国民作家の魯迅が生まれる背景に仙台医学専門学校でのこのような体験があったことは、私たちも胸にとどめておいてよいのではないでしょうか。
肉体よりも精神の確立こそが中国人にとって必要だと考えた魯迅は、1906(明治39)年の春に、仙台医学専門学校を退学します。そうして仙台を離れる数日前、藤野先生から渡された1枚の写真の裏側に書かれた言葉、それが「惜別」の2文字だったのです。
東北大学には、魯迅記念展示室のほかに、「魯迅の階段教室」と呼ばれる建物があります。1904(明治37)年に仙台医学専門学校六号教室として建設されたこの建物は、2017(平成29)年には、登録有形文化財として登録もされています。
階段教室の外観。標識には「魯迅先生が学ばれた講義室」とある。
階段教室の中。訪問時は、あいにく床補強工事期間だったものの、
タイミングよく見学をさせていただくことができた。
ちなみに、この階段教室で講義を聴いていた魯迅には、座席の定位置があったと言われています。それが、教室中央のブロックの、前から3列目。そうと聞けば、そこに座らずにはいられません。ということで…。
教室中央のブロックの、前から3列目から見た教壇。
教室前方には、魯迅と藤野先生の顔写真が並べて貼られている。
遡ること、120年前。確かに、魯迅はここにこうして座り、あるときの講義で、中国の発展のために文学を目指す覚悟を決めたのだ…。そうしみじみと感慨にふけっていると、ふと、ある思いが脳裏をよぎりました。――そうだ。自分も今こうして、魯迅が腰を下ろしていたまさにその位置に「お尻」を乗せ、文字どおり、ついにあの大作家・魯迅老師と「おしり合い」になることができたのだ…。
と、寒い冗談はさておき…。
魯迅がこの仙台の地に学んだのは、僅か1年半のことでした。ですが、その短いながらも充実した留学期間があったからこそ、その後の近代中国の文学が切り開かれ、日本でも、今もこうして国語の教科書にその小説が載り続けているのです。
皆さんもぜひ、仙台を訪れた際には、魯迅の足跡を訪ねてみてはいかがでしょうか。
(参考文献・引用元など)
・「故郷」(「新しい国語3」東京書籍、2021)
・「藤野先生」(「精選現代文B」東京書籍、2018)
・「惜別」(新潮文庫、1973)
(取材日:2024年8月)
取材協力 東北大学史料館
https://www.archives.tohoku.ac.jp/
〒980-0812 宮城県仙台市青葉区片平2-1-1 東北大学片平キャンパス内
TEL 022-217-5040
開館日 月曜日~金曜日
開館時間 午前10時~午後5時(最終入館は午後4時45分まで)
※12:00~13:00は閲覧室休み
休館日 土曜日、日曜日、祝日、年末年始、夏季休業日
※なお、「魯迅の階段教室」の開室日は、水曜日・金曜日の10:30~12:00、13:00~16:00です。(祝日、創立記念日、夏季休業日、年末年始等を除く。)また、見学には、事前に史料館への申し込みが必要です。詳しくは、以下URLをご確認ください。
https://www.tohoku.ac.jp/japanese/profile/establishment/01/establishment0108/
(※施設情報は、取材日の情報に基づいています。)