新教科書特集 『竹取物語』と「あはれ」

2024.7.3

新教科書特集

『竹取物語』と「あはれ」

吉田幹生(成蹊大学教授)

知れば知るほど、古典はおもしろい。今回は、現代に生きる私たちが『竹取物語』を読む意義を考えます。新教科書の編集委員である、成蹊大学のよしみき先生にお書きいただきました。

『竹取物語』の主題は「あはれ」だ、とよく言われます。かぐや姫が「あはれ」という感情を獲得するのがこの物語のポイントなのだ、と。しかし、「あはれ」の獲得とは、いったいどういうことなのでしょうか。また、そのことが、現代を生きる私たちにどうかかわるのでしょうか。

この問いを解く鍵になるのが、昇天直前にかぐや姫が翁に告げた「かの都の人は、①いとけうらに、②老いをせずなむ。③思ふこともなくはべるなり。」という言葉です。「かの都の人」つまり月世界の人は、①容姿端麗で、②不老、加えて③「思ふこと」つまり悩みがない、というのです。注目したいのは、③悩みがないという点です。どうして月世界の人には悩みがないのでしょうか。

別れが来ることを悲しむかぐや姫と翁、媼(出典:国立国会図書館デジタルコレクション) 別れが来ることを悲しむかぐや姫と翁、媼
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

このような疑問を持って物語を読み直してみると、月世界の人がきわめて論理的な思考をしていることに気づきます。たとえば、かぐや姫を迎えに来た天人は、功徳を積んだ翁への褒美としてかぐや姫が遣わされ、その結果、翁は富を得ることができた、また、かぐや姫は罪を犯したので人間世界にやってきたが、その罪の期間が終了したので迎えに来た、と説明します。理路整然とはこういうことを言うのでしょう。翁とかぐや姫双方の事情を述べた上で、翁にも富を得るという点でメリットがあったし、罪の期間が終わったかぐや姫も地上に留まる必要がなくなった、それゆえ、かぐや姫が月に戻るのは当然の帰結であり、何の問題もないというわけです。

つまりはこういうことです。物事を論理的に処理している月世界の人にとって、論理こそが唯一の判断基準です。論理的に筋が通っていれば、それは正しいことであり、論理的に筋が通らなければ、それは間違っているのです。判断はきわめて明確かつ明瞭で、ブレません。論理(理性)に従って導かれることが、すべてなのです。それゆえ、月世界の人には悩みがないのです。悩みの生じる余地がない、と言った方が正確でしょうか。

逆から説明しましょう。人間が悩みを抱えてしまうのは、理性に抗って感情が動いてしまうからです。たとえば、翁はかぐや姫との別れを悲しんでいますが、それは論理で説明できるものではありません。いくら天人に説明されても、悲しいものは悲しいのです。それは感情の問題です。論理で割り切れる事柄ではありません。ここには理性と感情の対立があります。それが悩みを生むのです。そのため、論理(理性)一辺倒の天人には、翁の悲しみが理解できません。理性に抗って動く感情というものが、よくわからないのでしょう。

「あはれ」の問題は、ここにかかわります。自分に言い寄る求婚者たちに、かぐや姫は難題を出します。それは、入手困難な難題を示せば、自分への求婚をあきらめると考えたからでしょう。この世に存在するかどうかもわからない品物を手に入れることと、かぐや姫への求婚とを天秤にかければ、求婚を断念する方が合理的です。それが理性的な判断というものです。

しかし、求婚者たちはあきらめませんでした。理性の教える判断に抗って、かぐや姫と結婚したいという感情が動いたためです。そして、大金を出して商人から品物を購入しようとしたり、自らそれを手に入れようと海に漕ぎ出したりと、彼らは彼らなりに悪戦苦闘していきます。その結果、命を落とす者も現れました。そのような求婚者の反応は、おそらくかぐや姫にとって、予想外のことだったのでしょう。彼らの反応に接して、かぐや姫は、しだいに穏やかではいられなくなっていきます。それは、理性に抗って発動する感情の存在に目が向くようになったということです。翁の悲しみが理解できなかった天人とは、大違いです。しかし、これは諸刃の剣でした。人間の持つ感情の存在に共感を示すようになったということは、かぐや姫の側にもまたそのような感情(心)が芽生えたことを意味します。月からの迎えが来ることを知りながら、それを告げたら翁たちは悲しむだろうと考えるかぐや姫は、同時に翁たちとの別れを悲しむ存在でもあるのです。そのようなかぐや姫も、昇天の際に天の羽衣を着たことにより、人間らしい心(感情)を失ってしまいます。感情を持ったままでは、月世界へ戻れないということでしょうか。

かぐや姫の昇天(出典:国立国会図書館デジタルコレクション) かぐや姫の昇天
(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

このように、『竹取物語』は心の問題にこだわった作品です。この物語の主題とされる「あはれ」とは、理性で割り切れない心の動きに対する共感、あるいは、そのようにして動き出してしまう心そのものと不可分です。論理的には筋が通らないのですから、当然、誤りを含みます。間違っていると知りながらも、それを拒めないのです。それは、弱さや愚かさと言い換えてもよいでしょう。そのような弱さや愚かさを抱え込んだ存在が、『竹取物語』の描き出す人間なのです。

現代を生きる私たちにとって、論理的思考は重要です。それは言うまでもありません。しかし、すべてを論理で割り切ることができるのでしょうか。『竹取物語』はそういう問いを読者に突き付けてきます。私たちは、難題を出されて右往左往する求婚者を笑えるでしょうか。『竹取物語』の投げかける問題は、今なお意義を失っていない。それどころか、きわめて今日的な問題を提起しているのが『竹取物語』なのだと、私は考えます。


吉田幹生(よしだ・みきお)

1972年生まれ。成蹊大学文学部教授。日本の古典文学を研究している。令和7年度「新編 新しい国語」編集委員。著書に「日本古代恋愛文学史」(笠間書院)「データで読む日本文化」(風間書房)など。

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