
2023.12.13
古典に親しむ
知れば知るほど、古典はおもしろい。「古典に親しむ」では、古典に関するさまざまなトピックを取り上げながら、現代に生きる私たちが古典を学ぶ意義を考えます。今回は、学習院大学の中野貴文(なかのたかふみ)先生にお書きいただきました。
インターネットの発達によって、私たちは日々、膨大な情報を摂取し続けています。しかしそれらの情報の中には多くの嘘も含まれていること、そして多くの人が、それらフェイクニュースにあっけなく騙されてしまうことを、新型コロナのニュースの中で私たちは改めて実感させられました。
日本の古典文学の中にも、嘘に騙され、噂に翻弄される人々の姿を描いているものが散見します。ここでは、『徒然草』第50段に見える話を紹介しましょう。鬼になった女を引き連れて上京した人がいるという噂が、突然広まります。都中の人が女の鬼を見ようと大騒ぎしますが、ハッキリと見た人はおらず、興奮した群衆はとうとう乱闘騒ぎまで起こしてしまいました。「あちらにいたらしい」「昨日ここに出たそうだ」という噂が噂を呼び、真実から離れた嘘だけがひとり歩きしてしまいました。インターネットのない鎌倉時代でも、人と噂の関係は案外変わらないものですね。
ところで兼好は、最後に興味深い一文でこの鬼の話を締めくくっています。その頃あちこちで、数日皆が病気にかかることがあったが、女の鬼のデマは、この予兆だという人もいた、というのです。このはやり病のことは、他の歴史史料からも確認することができ、おそらくインフルエンザに似た咳病だったといわれています。それにしても、どうして女の鬼の噂が、インフルエンザの前兆だと捉えられたのでしょうか。
実は古典文学をひもとくと、はやり病を鬼や物の怪のような存在の仕業だとする文章を、幾つか見つけることができます。ここでは一つだけ、『今昔物語集』巻27の第11話をご紹介しましょう。今は昔、これもコロナやインフルエンザのようなものでしょうか、貴族も庶民も、皆が咳などに苦しむことがありました。そんなある日の深夜、一人の料理人がとても高貴そうな人と遭遇します。その人は、料理人に向けて次のように語ったのでした。自分はかつて大納言を務め、その後罪を犯し流刑となって早逝した伴善男(とものよしお)という者だ。今は疫病神となり果ててしまったが、大納言だった頃、わが国より頂いた恩はとても大きい。そこで、本当ならば今年、深刻なはやり病が起きてこの国の人は皆死ぬはずだったのだが、私が頼み込んでこの程度の咳病の流行に留めたのだ、というのです。
朝廷に大恩ある疫病神だったため、疫病のレベルを下げてくれたのだという話の展開も興味深いのですが、今はやはり、はやり病が(ここでは料理人の前に現れるとはいえ)人の目に見えない疫病神によって引き起こされていることに注目しましょう。そう、実はこの「目に見えない」という点がポイントなのです。
コロナにしてもインフルエンザにしても、感染症の原因となるウイルスはもちろん目に見えません。現代は、非常に精度の高い顕微鏡によってその存在を捉えることはできますが、それでも普段の日常生活の中で目視できるわけではありません。まして平安時代や鎌倉時代において、突然社会の中に蔓延する感染症は、目に見えない脅威として人々を苦しめました。
一方、鬼という存在も、本来目に見えないものでした。例えば『古今和歌集』の「仮名序」には、和歌の効用として「目に見えぬ鬼神をもあはれとおもはせ」などとあります。また、毛虫を愛する風変わりな姫君の物語である『虫めづる姫君』の中にも、「鬼と女とは、人に見えぬぞよき」などという一節も見えます。この他の古典文学をひもといてみても、鬼はしばしば暗闇の中に現れ、姿を見せぬまま惨事を引き起こしています。
現代のように、夜間照明も監視カメラもない時代、人々は暗闇の中で起こった信じがたい事件、珍しい気象現象で偶然起こったアクシデントなどを、目に見えぬ鬼のせいにすることで、乗り越えていたということなのでしょう。感染症の蔓延も、その一つというわけです。これらの流行は、何の前触れもなくはじまり、決定的な対抗手段もわからないまま多くの人々が病に臥せり、社会が機能不全を起こす。つい最近、私たちの世界が体験したことです。原因となる対象、この場合はウイルスをハッキリと認識、目視できないこと、これがパンデミックの喧騒に輪をかけたことは間違いありません。古代の人々はそのような折、これを鬼の仕業と考え、その調伏を願ったのです。
その後、元々は目に見えない存在であった鬼たちは、徐々に文学や絵画の中で、人に見られる存在として表現されるようになりました。それらは、例えば『百鬼夜行絵巻』に描かれているように、目が一つだったり口がなかったり、体が赤かったり黒かったりと、実に多様な姿をしています。私たちがよく知っている、頭には角を生やし、虎柄のふんどしを身にまとった鬼の姿に画一化していくのは、もう少し時代が下って、およそ江戸時代あたりからのことです。その頃になると、大流行した漫画『鬼滅の刃』のように、鬼は武器を持った人間たちに討伐される敵役として登場するようになります。視覚化され、画一的な表現の対象となったことは、もはや鬼が不気味な、克服できない対象ではなくなったことを、何よりも雄弁に物語っているのではないでしょうか。
探幽/百鬼夜行図
(出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp/))
そういえば『鬼滅の刃』の鬼たちは、太陽の光を苦手としていました。それは、鬼が目に見えない脅威であった古代的な発想を、どこかで受け継いだもののように私には思えます。ここ数年、私たちの世界を脅かし続けたウイルスも、目に見える形で分析が進み、一日でも早く克服できる日がくることを願って筆を措きたいと思います。
中野貴文(なかの・たかふみ)
1973年生まれ。学習院大学文学部教授。日本の古典文学を研究している。令和7年度「新編 新しい国語」編集委員。著書に「徒然草の誕生」(岩波書店)「女学生とジェンダー」(笠間書院)など。